労働が嫌い
そもそもの話、私は労働が嫌いである。
常にとは言わないが、ひどい時には、人付き合いが面倒くさい、理不尽な要求を受け続ける、さらに昨今は人手不足の深刻化から一人あたりの業務負荷の増大ときている(会社の業務見直し活動があっても)。
そんなことはとは私もよく聞くし、経験はしている。
私自身、前職はこれらのせいでメンタルがやられ仕事を続ける自信をなくし、転職したクチである。
そもそもの話、私は労働が嫌いである。
金さえあれば労働しないか
じゃあ私は全く労働をしなくてもよいかと言われれば、そうでもない。
仮に、労働しなくてもよいくらいのお金があったとしよう。
お金の額は1,000兆円ならいいだろう。
生きるためなら金さえあれば、労働はいらない。
FIREすればよい。
では、私も1,000兆円をもらったとして、労働をやめるのか。
おそらく、やめないし、引き続き労働をしていると思う。
労働の欲求
なぜか。
労働していないと自分がダメになってしまいような、そんな気がするからである。
社会から取り残されてしまう、そんな気がするのである。
根源として、人は誰かと助け合って生きていかねば死んでしまう、狩猟の時代の時みたい、にという考えがあるからである。
これは私が本能で労働を求めているのだと思う。
労働の欲求である。
役割の欲求
じゃあなんで労働をしたいのか。
何か、何でもよいから人から必要とされる役割を担いたいんだと思う。
直接的・間接的、関係なく誰かのために何かをして、何か良い影響を与えたいものなのだと思う。
役割の欲求である。
不思議である。
労働は義務と言われているが、これは組織の維持としての考え方であって、個人としてはむしろ望んでやるものなのだと思う。
嫌々と強制的にやらされているものではないのだと感じる。
これも、前節の「根源として、人は誰かと助け合って生きていかねば死んでしまう、狩猟の時代の時みたい、にという考えがあるからである。」と同じなのだと思う。
つまり、私は誰かと助け合うための役割を求めているのだと思う。その手段が労働なのだと感じる。
誰かと助け合うための役割を担いたいということは、自分自身が役割の責任をもちたい、ということである。
役割を担うということは、責任を持つ、ということである。
またも不思議である。
人はひたすらに怠けて楽して生きたい生き物ではない、ということである。
もちろん私を含め、人はなまけたい気持ちはある。しかし一方で人はなまけ続けたくない、という気持ちも持ち合わせている。なまけたいとなまけたくないを行ったり来たりしているのである。
まとめ
まとめると、役割の欲求があるから実現手段としての労働をしたい、ということなのだと思う。
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