当事者と外野の立場が逆転した時を考えてみる
もう本当にクソデカ主語で恐縮だが、人間はどこまでいっても当事者にならないと相手の気持ちを本当に理解したことにはならないものだと思っている。後で思いやりのことを述べていい方向に持っていっているのだが、それでもね...と思わざるを得ないのである。
どんな場合でもいいのだけれども、その事象における当事者じゃない者は、当事者である相手に好き放題言いまくっているのを見かる時がある。
もちろん当事者じゃないからこそ、好き放題な発言は時として当事者にとって貴重なヒントになったりするときがあり、事実として事態が改善する。
でも、大抵の場合、好き放題言っている時は様々な正論を当事者に浴せかけるだけであり、当事者じゃないものを余計に悩ませる場合が多いと思う。
で、そういった人はいざ立場が逆転すると(当事者と同じ状況になったりすると)、本性が現れたりする。
いままで当事者に浴びせていた正論をやるのかと思えば、まぁやらない。
その時に人の本性を見たような気になる。
要は嘘なのだけれども。
時には自分の良心にも嘘をつき(私はここまでくると悪といっている)、自分の立場をまもり、責任から逃れようとするひとも相当に見てきた。
なんやこいつ、立場逆転したら言うこと変わっとるやないかい。
【参考】悪の考え方の記事↓↓
ルール上は一方的で許されるのだが
本来、学校や会社は”義務”と”責任”の世界であるため、責任を果たせなかったことに対して色々と詰められる。
学校もそうなのか、と思う方もいるかと思うが、子供たちは”義務”教育をしているわけなので、子供たちは受けた教育の内容をどれぐらい身につけたかを示すテストにより、点数で示す”責任”を果たしていると言えよう。会社は...割愛。
話はそれたが、責任を果たせなかった当事者が詰められる時、当事者じゃない者はなかなかおいしい立場であるわけである。
自分がターゲットでないことが相当の可能性で約束されたうえで、当事者に一方的にさまざななやり取りを仕掛けられるからである。
酷い言い方がゆるされるのであれば、当事者をはりつけにした上で、当事者じゃないものは一方的に石を投げつけられることができる立場となれる。
仕事のデキる人ならば、理路整然となぜ責任を果たせなかったことを説明できると思うが、私を含めて大抵の人はそんなうまく話せるかといえば、そうじゃないと思う。
当事者の疑似体験をするための思いやり
当事者と当事者じゃない者・立場がハッキリとした場合の一方的なやり取りにおいても、外野から見た人は違和感を感じている場合がほとんどだと思う。
どんな違和感かと言えば、当事者じゃない者が当事者にボロカス言ったときに「確かにこいつの言っていることは正論なんだけど、何か言い過ぎじゃね?」となる違和感である。
当事者が正論で相手を立ち直れないくらいにボコボコにすると、結果、当事者の仕事のパフォーマンスも低下するし、何より当事者の心身の健康が害されるということは直感でわかるため、止めに入ることが多いと思う。
で、外野からはこういう意見がいく↓と思うのだが、
南條範夫/山口貴由, シグルイ
となる。
実際は正論を言う側は、ケツをたたく、とかいう表現になると思う。
何にせよ、正論を言いまくる側からしたら、外野からの意見はまあ耳には入るが頭には入らない。
正論を振りかざせばかざすほど、当事者が何も言えなくなる状態と言うのは、当事者は生き物として毒を食らっている状態である。
どんなにいい薬も取り過ぎると毒になる考えと同じである。
ここまでくると、当事者じゃない者(ここでは正論を言う側)は、心理的なブレーキのようなものが必要になってくる。
ブレーキなので、正論のだし具合を調整する。
私はこのブレーキのようなものが、思いやりなんだと思う。
相手の気持ちになる、という当たり前の言葉に帰結する。
相手の気持ちになることは共感に類するものである。
そのため思いやりを持つという事は、相手の気持ちになるということとほぼ同義だと考える。
そうなると、思いやりっていつ頃に身に着くかと言えば、子供の時であろう。
結局、私は育ちの問題なんじゃないの、と思っているわけではある。
思いやりの身に着け方は次の内容そのままを引用させてほしい。
引用の内容の記事こちら(イジリとイジメの境界線について考える)
司馬さんは、例えば友達が転んだ時に「痛かったろうな」と感じる気持ちを自分の中につくりあげ、それを積み重ねさえすればいい、という。
加藤 幹敏(年代記録忘れのため不明), 旅立つ君たちへ,株式会社 中日新聞社
ここで章題とリンクするのだが、この引用をもとに考えれば、私は思いやりは事前に当事者の立場を経験したからこそ身につくものだと考える。
当事者の立場と100%とはいかなくても、50%以上は何かしら、当事者と同じ経験をしたのではと考えている、
つまり、そこに共感があるのである。
当事者が置かれている状態を当事者がないものが見たとき、自身の経験のフィルタを通して、自分が辛かった記憶が浮かんで、やっと、当事者の気持ちになったと言えるのである。
人生経験が豊富な方は優しい人が多いということはよく聞くが、思いやり(共感)という観点から見れば、なるほど的を得ていると思う。
思いやりは甘えか
思いやりを持つことは、当事者を守り過ぎだとか甘やかしているといった類の内容から異なることを言いたい。
あくまで責任問題は責任問題として、心的配慮は心的配慮として完全に切り分けているからである。責任問題はちゃんと当事者に問うのである。
当事者の心的配慮と責任問題を切り分けられないのは当事者じゃない者であり、当事者じゃない者が「甘ったれるな」という発想に至った時点で、
自分が当事者と同じ痛い思いをして
これは、(本当はめちゃくちゃ大変でめちゃくちゃ勉強て習得しなければならない)指導の話になるため、ここでは”指導を勉強しろ”としか言えない ← 自分にウルトラスーパー反転増幅特大ブーメラン。
クラッシャー上司みたいな人のタイプに対しては次の記事でまとめています。
【考察】仕事がデキるひとは怒りやすい傾向にあると思うのだが
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