タイトルの通りですが、私の立場は被害者です。
目撃は2回なので、実際はもっとかもしれません。
私の主張は「私は被害者だ!公園のボール遊びは悪!!根絶すべき!!!」ではありません。
私もボール遊びで育った側だからです。
長文記事になったため、要点だけ見たい方はまとめだけ見てください。
参考文献は記事の最後にあります。
- そもそもの前提は「こどもの心身の発育」である
ボール遊びはするべきである - 昔と今の違いは、「こども達がボール遊びによる加害行為を隠すことができないくらい、大人たちの目がこども達にいき届いていたかどうか」である
- ボール遊びは被害者・加害者・第三者の指標で論を進めるべきではない
極論になりがちだからである
そもそもの前提の「こどもの心身の発育」の前提が忘れさられる - 双方が納得できる妥協点を模索し続けるための譲り合いの精神が必要と考える
- 譲り合いは高度なコミュニケーションの技術である
いかに皆が損得の考えを脱することができるか、にかかっている - 被害者と加害者を生み出さないボール遊びを考えるという理想だが恐ろしく困難なことをしなければいけない
- 私はいち地域住民として住居グループの班長や組長に連絡して組織的に動くしかない
私の事例
我が家は公園の前にある。
公園には「ボール遊び禁止」の表示あった。
そんな中、子供たちが遊んでいる公園から勢いよく飛んできたサッカーボールが、公園前の我が家の車に当たるに至った。
先に断っておくが、私は親御さんを呼びつけて賠償請求することはしなかった。
さらに断っておくが、私は2回の被害にあっているため、所属している地域の班長や組長に相談をするに至っている。
被害の内容は次の通りである。
- 1回目はサッカーボールが公園のフェンス(1mくらい)を飛び越え、そのまま私の家の車の全面にぶつかった
子供たちは右往左往しながらも、最終的には名乗り出て謝った - 2回目は野球ボール(おそらく軟球)が家の中にでも聞こえるぐらいの音で私の家のカーポートに当たった
ボールは私の家の敷地内の奥側へとはいっていった
こどもが私の家の敷地内の奥側に入りボールを持ち去ったあと、そのまま逃げた
いろいろ調べてみた
公園の起源
参考文献1によれば公園は「明治6年1月15日の太政官布告第16号による公園設置」により誕生した。
※明治6年は西暦1873年
公園は予想以上に古い歴史であることに驚いた。
昔の公園の姿
J-STAGEで調べたため、なにかと厳密な表現で記載されていた。
調べた内容から落ち着いた結論は、「こども達がボール遊びによる加害行為を隠すことができないくらい、大人たちの目がこども達にいき届いていた」というなんだか当たり障りのないものになった。
そんな当たり障りのない結論に落ち着くにいたった調べた内容は次のとおりである。
- 過去の公園におけるボール遊びの認識
- 地方自治体の制度の変遷
過去の公園におけるボール遊びの認識
公園のボール遊びについて論を進めるにあたり、ボール遊びにおける前提をおさえる必要があると考えた。
つまり、私が生まれるはるか昔から、ボール遊びが地域からどう見られたか、その変遷を知る必要があると考えた。
結果、あまりに情報が膨大であった。
行きつくところは行政にか関わるためである。
そのため、法律に無知な私でも扱える内容に落とし込み、さらに次の2点についてみることとした。
- 昔の人は公園のボール遊びについて、どのような認識を持っていたのか
- 公園のボール遊びはどのような環境下で実施されていたのか
過去の公園におけるボール遊びの認識の変遷
昔の日本では、大人が子どものボール遊びに寛容だったようだ。
都市化が少なく、コミュニティが密接で、子どもの遊びが自然に受け入れられていたからである。
しかし、都市化の進行により、公園が住宅密集地に近接し、騒音や物的損害が問題化した
(参考:Playground love: Exploring the green among the gray)。
また、都市化の進行により、子どもの声が「騒音」と感じられるという事象が発生した。
現代では、ボール遊びに対し、昔のような寛容さが失われつつある。
(参考:Raising subjects: The representation of children and childhood in Meiji Japan)。
[補足:日本以外のボール遊びの認識]
一部の国(ヨーロッパ)の情報しか調べていないが、日本以外の国でも、昔はこどものボール遊びが自然なものとされ、軽微な損害はコミュニティ内で解決されることが多かったようである。
日本と変わらない内容な感じがした。
- 子供の遊びの認識
ロマン主義の影響で、ルソーやワーズワースなどの思想家が子供を純粋で無垢な存在と捉え、遊びをその発達に不可欠なものとした。
このため、ガラスが割れたり瓦が剥がれたりしても、大人はそれを受け入れる傾向があった。 - コミュニティの結束
昔は近隣住民のつながりが強く、子供のいたずらによる損害は話し合いで解決されることが多かった。
法的な責任よりも、コミュニティ内の調和が重視された。 - 例外的対応
例えば、1960年代から1970年代のインフォーマライゼーション期には、冒険遊び場が普及し、こどもの自由な遊びが奨励された。
この時期、大人はリスクをある程度受け入れる傾向があった。
過去の公園のボール遊びはどのような環境下で実施されていたのか
人や建物が密接していない公園や空き地および道路であった。
要素は次の2点である。
- 開けた空間の多さ
昔の日本は田舎や郊外が多く、子供がボール遊びをする場所として公園や空き地が豊富であった。
家のガラスや屋根に与える影響が少なく、大人が寛容だった。 - 交通の影響
自動車の普及が遅かったため、街路での遊びが危険視されることは少なく、子供が自由に遊ぶことが許容されていた。
私の子供のころと変わらない感じである。
地方自治体の制度の変遷
Webでボール遊びと検索すれば市役所や訴訟事例のページなどからトラブルを元にした様々な制度をみることができる。
色々調べたが、ここでも情報は膨大であったため、要点だけ述べるにとどめる。
- 研究は、地方自治体の公園でのボール遊び規制が都市化と共に厳しくなった可能性を示唆している
- 昔は比較的自由だったが、現在では60%の自治体が規制している
東京は特に厳しい - 住民のクレームや子育て世帯の減少が規制強化の背景にあると考えられる
しかし、詳細な歴史は不明確
私の考え
この時点で結論が出てしまったように思った。
先ほど述べたが「こども達がボール遊びによる加害行為を隠すことができないくらい、大人たちの目がこども達にいき届かせる」ことが重たる要因であると言わざるを得ない。
なぜかと言えば、次のとおりである。
- 今も昔もこども達のやることは変わらない
私のこども時代を振り返れば何の特別なこともない。
こどもたちはボール遊びをするなと言われても我慢できずにする子がいるのである。
親たちから「ボールを遠くに飛ばすようなことはするな」と言われたとしても、ボールは遠くに飛ばすのである。
そうなれば公園の近くにある家の窓・車・柵・扉・表札など、何かしらボールを当て、最悪壊す。
こども達は正直に名乗りでて詫びることよりも、まだ自分たちの顔がバレていないのなら逃げだしてしまおう、という考えになる可能性は高いものである。
至極当然である。叱られる恐怖が勝つからである。
こどもだからである。 - ご近所がこどもたちの顔と名前を把握していた
人が多すぎない田舎では、とにかくご近所の方がこども達を見ていた。
別に直接会話するわけではないが、〇〇さんのお子さん、といった具合にたいていの子供は身元と顔がわれていた。
監視された気分である、といった具合に人の目が常につきまとうと言えばその通りであるが、ボール遊びにおける問題においては有事の際における要因調査における助けになることは間違いない。 - 大人同士もお互いを認識していた
「事が起こってから初対面」はなかった、ということである。
もっといえば、ご近所の方々すべてと付き合いがあったため、ご近所とのやりとりのスピードがとても早かったと考える。
。
私は思うに、「事が起こってから初対面」はとても厄介なことだと考える。
なぜなら、お互いの人とナリが分からないからである。
何も知らない相手であるよりもお互いが知り合いのほうが、雲泥の差でやり取りのしやすさがある。
不思議なことに、お互いの人とナリが分からないと、とても杓子定規なやりとりになる。
譲歩や譲り合いもない。
ルールに沿って淡々と善悪を明確にする作業となる。
あとは、ボール遊びの事が起こった時に発生するそれぞれ立場(被害者・加害者・第三者)における考察をするにいたる。
立場の観点では見てはいけない
ボール遊び問題は立場が発生する。
それは被害者・加害者・第三者である。
3種類の立場はボール遊びによって自然に発生する立場となることから、自然な流れと考える。
先にいうが、私はどの立場で判断見るべきでない、が答えである。
私がバーチャルな居場所としているXでもボール遊びに関する意見は膨大であり、短い文章ながら様々な立場の意見がある。
それらをふまえ、私はこの3つの立場で論を進めることとした。
再度いうが、どの軸でも見るべきでない、が答えである。
それぞれの立場からみた公園のボール遊びの認識
当たり前な話であるが故に、被害者・加害者・第三者の定義が必要と考える
被害者
ボール遊びがもたらす騒音、安全、物的損害が主要な問題である。
その中でも物的損害からなる事例は特に深刻である。
特的損害のリスクは常に被害者側の背後に張り付いている。
物的損害の費用は大抵が高額となる。
また、加害者が正直に名乗り出てくれる保証はない。
これらの条件では、被害者は物的損害のリスクそのものの排除を望むのは自然な心情である。
つまり、とにかく公園のボール遊びを撲滅したい、となるのは自然な心情である。
初めのうちは許せても、後になれば嫌になる。
私の場合は冒頭記載したとおり、被害者の立場として加害者を大目にみたのだが、何度も被害にあえばボール遊び撲滅 という考えに来るのは想像に難くない。
加害者
近場でボール遊びができないことが主要な問題である。
加害者の場合、被害者と異なり、ボール遊びを実行するこどもの視点とこどもの管理監督をする親の視点の視点に2分割される。
こどもの視点
こどもたちは自転車で移動することが主である。
移動範囲は狭い。
必然的に遠出ができないため、広い敷地の場所で自由に遊ぶことができない
また、昨今の学校は運動場を不審者対策で開放していないのが現状である。
(私も町内の組長の話をして初めて知った)
近所でボール遊びはできないのである。
だから、公園でやる、という論理が成立してしまう。
そして、ボール遊びをやりたい心がボール遊び禁止の張り紙の内容より勝ってしまう。
では、ボール遊びはどこでやればいいのか、ということになる。
やるな、の選択肢はない。
なぜならこどもたちはボール遊びをしたいからである。
とにかくしたいでのある。
ボール遊びの欲求には勝てないのである。
こどもたちは広い敷地がある場所は禁止であることぐらいわかっている。
わかっていて、ボール遊びをするのである。
親の視点
親の視点はボール遊びがこどもにとって身体的・社会的成長に大きく寄与することである。
ボール遊びを通じて運動能力やコミュニケーションスキルを育むことができ、運動不足や肥満のリスクを軽減する効果は大いに期待できる(参考:The importance of play in children's learning and development)。
また、ボール遊びを推奨する親はボール遊びが禁止されことで、子どもたちのストレスや不満が増加を懸念する。
親からみても、子供の成長のためにボール遊びの自由が守られるべきだと主張できよう。
参考文献はリスキーな遊びがプロソーシャル行動(他者への思いやり)と正の相関があると示している。
遊びの制限は子供の社会性に悪影響を及ぼす懸念がある。
”感覚的に当たり前だね”ということは定量化されると、(プラセボ効果にせよ)納得感がある。
(参考:Risky Play and Social Behaviors among Japanese Preschoolers)。
これは何となくだが、私のような被害者の立場として実感がある。
加害者のこどもは被害者のことを全く考えていないわけではない、ということである。
なぜなら、私は中々に言葉遣いが悪い・バットでバレーボールを打つようなことをするやんちゃなこどもたちでさえ、ある一定の配慮をしていることが垣間見られることを、確かに見たからである。
例えば、ボールが飛ぶ方向を被害者の敷地内になるべく飛ばないようにボールを投げる向きを被害者の敷地と水平にする、といった具合である。
しかし、結局はこどもなりの配慮であるため、対策の質も低い。
結局は被害者を生む。
上記より、ボール遊びをする場所がないボールが被害者側の敷地内に飛ばないように最大限の努力はしているから、ボール遊びをさせてほしい、と考える。
第三者
もっともらしい意見をいうように感じるが、私はこれが最も厄介な立場であるように思う。
出される意見は参考程度に収めた方が良いと考える。
なぜなら、第3最は当事者ではないからである。
ボール遊びにおける、被害者でも加害者でもないことはとても厄介である。
こどもの遊びの権利や近所づきあいといった人間関係を無視するからだらである。
第三者の考えや発言は極論に行きがちである。
極論とは、ある観点から見た正解である。
そもそも論である。
そもそも論は正解なので他の考えが入り込む余地はない。
これがとても厄介なのである。
詳細は次の章で述べる。
課題
極論を出すことの危険性
被害者と加害者の対立関係においては、双方の認識があわさることはほとんどなく、議論が平行線に終わってしまうと考える。
先ほど述べたとおり、極論(そもそも論)で考えてしまうからである。
被害者は「なんで公園でボール遊びは許可されてるんだ!公園のボール遊びは悪!!根絶すべき!!!」という論を出そうと思えばだせてしまう。
一方で加害者は「なんであんたらは公園の近くに家を建てたんだ!そんなに公園のボール遊びが嫌なら公園以外の場所で家を建てればよかったじゃないか!!家を建てる前からわかってただろ!!!バ〇なのか!?!?」という論を出そうと思えば出せてしまう。
上記それぞれの立場の認識は、どちらも正解である。
言い方うんぬんの話は不問とする。
公園のボール遊びの観点で見れば、話の筋は通っているからである。
しかし、実際はお互いの立場を優先して白黒つけるわけにはいかない。
被害者側は家を建てる理由がボール遊び以外にもあったから公園の近くに家を建てたわけであり、加害者側は昨今のボール遊びできない子供のことを配慮しているわけだからである。
要は、双方で見ている観点が全く違う、ということである。
そうなってしまえば、お互いの立場の違いを考えることはなくなる。
事態の解決にならないから、被害者と加害者の観点における極論(そもそも論)は有効にならないのである。
中性的な落としどころを考える必要がでてくる。
中性な落としどころの模索
ある場所を規制すれば、他の場所の帳尻を合わせる必要が出てくる。
公園は地域でたくさんあるため、一か所の規制を強くすれば他の箇所の公園のボール遊びの規制を強くする必要がある。
全体の調和が必要になってくる。
全体の調和とは、言い換えれば誰もニコニコできないことを指す。極論が採用できないからである。
個人で動くことの危険性
個人で動くことは推奨できない。
近隣の付き合いが非常にやり辛くなるからである。
田舎の場合、地域の祭りなどローカルな催し物に参加する必要があり、その時に加害者側と被害者側の保護者が顔をあわせると非常にやりづらい事態となる。
最悪、公園のボール遊びと関係ないなかでも、その場で衝突が発生することもある。
地域に所属する班長や組長に話を通すことが賢明である。
昔のようなカミナリおやじは都市化が進んでいない、犯人がだれかすぐに特定できたためにできた行為なのである。
所感
私は親として、地域に属するものとして避けて通れない問題と認識し、もとより自身のブーメランであることを承知の上でこの記事を作成した。
私は公園のボール遊びの問題はとてもセンシティブなものと考えている。
ありとあらゆる立場の人たちを巻き込み、すべての立場の人たちにとって中性な合意形成をする必要があるからである。
中性な合意だったら市役所といった公共の立場の人がいるんだろう、とは言わないでほしいと思っている。
もちろん、いろんな考えを取りまとめる旗振り役は必要だが、旗振り役に全部丸投げだと解決しないと断言したい。
ボール問題は育児における本質にたどり着くのでは、と思っている。
本質は「育児は身近にいる人たちすべてで行う」である。
親以外の人たちの、身近な人たちの力が必要なのだと感じる。
地でその本質を皆で実践するのである。
これは到底たどり着けることのない境地である。
いや、もしかしたら、私がこどものころであった時の、悪く言えばお互いが常に監視しあっている「隣人はお知り合い」であった時のような、昭和の古き良き時代へ回帰することが必要なのじゃないかと思わざるをえない。
大人にとってはまぁ辛い話である。親にとってもなおさらである。
しかし、すべては子供のためという魔法の言葉が全てを解決してくれるようにも思ったりする。
参考文献
寺田 光成, 木下 勇(2020), 地方自治体による街区公園のボール遊びの規制実態に関する研究, ランドスケープ研究(オンライン論文集), 公益社団法人 日本造園学会
https://doi.org/10.5632/jilaonline.13.52
土肥真人(1992), 明治期の公園誕生に関する考察ー江戸、東京における街路との関係を主軸にー, 第27回日本都市計画学会学術研究論文
https://doi.org/10.11361/journalcpij.27.37
J-STAGE, 国立研究開発法人科学技術振興機構 [JST]
https://www.jstage.jst.go.jp/browse/-char/ja
Playground love: Exploring the green among the gray, THE JAPAN TIMES LTD
https://www.japantimes.co.jp/life/2020/07/07/language/playgrounds-in-japan/
Raising subjects: The representation of children and childhood in Meiji Japan, Japan Foundation, Sydney
http://dx.doi.org/10.21159/nv.04.01
The importance of play in children's learning and development, StartingBlocks.gov.au
https://startingblocks.gov.au/resources/educational-programs/the-importance-of-play-in-childrens-learning-and-development
Risky Play and Social Behaviors among Japanese Preschoolers, New Voices Volume 4, Japan Foundation, Sydney
https://doi.org/10.3390/ijerph19137889



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