概要
製造業の立場としてこれからは量の時代から質の時代が来るだろうと感じています。自分としては大きな出来事だと考えているため、考察しました。人口の推移をもとにしています。
過去記事。
量の時代・質の時代についてはこの記事のラストで記事にしています。
量の時代、質の時代は造語です。定義は次の通りです。
- 量の時代
製品の中身の重みよりもとにかく製品を大量に作ることが最優先となる時代。
(人口増加が顕著な団塊・バブル世代) - 質の時代
製品の中身の重みが大きく個人の細かな要求に応えられるものを作ることが最優先になる時代
構成は量の時代が土台、その上に質の時代があります。
背景
社会人になりたての頃(当時24歳)、量の時代の人たち(団塊・バブル世代)の会社のほとんどの先輩が以下の特長をもつ人が多いと感じ、とにかくとても苦労しました。
- 暴力的で横暴:普通に殴ってくる
- 精神的に幼稚:気に入らないことあると怒り出す
- 変化を嫌う:そのくせビビり
学校で教わった「人としてやってはいけない事」を漏らさずやりきる輩でした。今となっては彼らは年をとったため当時の勢いはなくナリを潜めている気がしています。
今回はこの団塊・バブル世代のほとんどの人たちを基準に、今と比較して考察していきます。
量の時代に何があったのか考察
私は冒頭で量の時代(団塊・バブル世代)のほとんどの人たちは「変化を嫌う」と述べました。確かに彼ら(基本権限を持った人は男が主流でしたので彼らといいます)は、改革だとのたまっても状況を劇的に変化させることはありません。今もですが。今もですが(二回言った)。
これは量の時代が高度経済成長の時期であることに起因していると考えています。この時期に彼らの考えや価値観が固まってしまったのでないかと。
このときは経済は右肩上がりでした。彼らの世代が人口の増加の時であったと考えています。次のグラフを見てみてください。
出生数が右肩上がりの時期は1950~1975年、そんな彼らが社会に出た時はバブル景気になりました(1986年11月から1991年2月(引用:Wikipedia))。人口増加はあらゆる種類(食料や製品など)の需要の増大につながり、供給側の生産能力を追い越します。
需要と供給のバランスが完全に需要側に振り切れ、完全な物不足となります。供給側は需要を満たすためにとにかくどんなものだろうと生産を続けなければいけない時代でした。まさに量の時代といえます。
量の時代は製品の量産が最優先となります。量産の観点では決められた同じことを繰り返すことが何より大事です(製品品質の再現性の観点)。私の生産技術的な立場からみても同様です。しかしながら、私は彼らが量の時代に数十年としていた「決められた同じことを繰り返すこと」が彼らのとっての唯一無二の「正義」であると感じさせるに十分すぎたのではないかと考えています。
なぜ「正義」かといえば、彼らの活動が経済の成長という強烈な成功体験となったからです。ニュースでもGDPが世界トップといった具合で報道され、その報道が国民一人ひとりにフィードバックされていました。自分だけでなく、周りも同じように成功体験を共有できていたんじゃないかと。
私は会社のレジェンド(今は嘱託の大先輩)から当時の状況について教わりました。「やればやるほど数字になって成果が出る。それを皆が共有している。2徹3徹当たり前の時期で体力的には死ぬほど辛かったがそれ以上の充実感があった。」
個人が感じた成功体験を他の人とも共有できる、共有が確信に変わる。「正義」が醸成されていく。このような手順だったのでは思っています。
質の時代の幕開け
ここで人口グラフを再掲。
今度は日本の1975年以降の出生数に着目します。一目瞭然で出生数は現象、つまり人口は芋づる的に減少となります。また世界の人口に着目すると、人口は新興国のおかげでまだまだ右肩あがりだろうと思いきや、1995年あたりで伸びが止まりその後は横ばいです。
人口が増えていないことは質の時代の幕開けであると考えます。
量の時代の人たちへの影響
量の時代の人たちは着々と成功体験を積み上げていったわけですが、私は彼らの「正義」は今後まったく通用しなくなると考えています。なぜなら、製造側は同じものを作る期間が短くなるからです。
もちろん量産段階でおなじことをすることは変わりませんが、おなじことをする対象がコロコロ変わる点で異なります。そのため、やっていた決められた同じことを長い期間繰り返すことができなくなります。
日本でも子供の出生数が右肩下がりのニュースが連続で報道されています。需要の源である人が減るため供給=製品の数が需要をすぐに追い越します。
そのため製品はすぐにお客(必要としている人たち)にまんべんなく行き届いてしまいます。
製品がすぐにお客に行き届くことは、量の時代でできていた戦略は通用しなくなることを意味します。例えば、人口が多いことは製品の浸透が遅い、ということを逆手に取った「小手先レベルで変更しただけの新製品」を連続でリリースし、お客が常に新しいものを手に入れているような錯覚(優越感)をもたせる、と言った戦略をとっても、製品はたくさん作られたところで在庫になるだけです。
同じものを長い期間くることができない状況が続くのであれば、彼らの「正義」はただの煙たい固定概念に早変わりです。
質の時代:実態は多品種少量の実装
質の時代は個人に焦点をあてた細かなニーズに対応することによる多品種少量の実装の時代と考えています。
製造側は必然的に画一的な製品を作ることをやめざるを得なくなっていきます。製品で満たされたお客は変わりばえのない製品に満足せず次第に製品に求める内容(ニーズ)も個々人により多岐になるためです。製造側はそんな多岐にわたる顧客の要求に答える必要がでてきました。個人にあわせたカスタマイズの必要性に迫られるようになります。
注意したいのは、質の時代は超ハイエンドな製品だけが生き残る時代、というわけではないことです。あくまでも個人のニーズに合わせる、ということが肝になります。
具体例としてスマホ一つとっても、(この記事の段階で円安の影響が大きいにせよ)1台10万円するようなハイエンドモデルから2万円のローエンドモデルまで出てくるようになってきました。そして、それらがしっかりと必要としているお客に行き届きます。今後さらに価格帯によって性能が分かれていくかは顧客のニーズによりますが、少なくともそうなれば製造側はあわせるようにさらに細かなカスタマイズを実施する必要があります。
日本にとっての質の時代はいつ来るのか
いち個人がクソでかワードを使うことご容赦ください。
結論から述べると量の世代のほとんどの人たちがいなくなることです。なぜなら量の時代以下の世代は人口でかなわないからです。意思決定は多数決の原理でうごきますので。会社の風土とやらも結局は所属している組織の世代の考えが色濃く反映されやすいものです。
その後過去を清算、質の時代に対応するべく体制を構築します。
量の時代の人たちは質の時代を拒絶する
私は量の時代を生きた団塊・バブル世代のほとんどは能力として質の時代を生き抜くことはできないとかんがえています。同じことをする「正義」=強烈な十年単位の経済の成長とともに成功体験となり足かせとなるからです。
彼らのほとんどは成功体験が体に染み付いているため、質の時代がやってきただの多品種少量といったところで拒絶の反応をするでしょう。
それでも否応なしに質の時代はきています。彼らのほとんどは仕事上しかたなく変化について行こうとしますが、残念ながら彼らのほとんどにとって、冒頭で話した「暴力的で横暴」「精神的に幼稚」「変化を嫌う」という特徴もあり、質の時代の対応方法を体の芯まで染み込ませることができません。
…私の独断と偏見ですが、量の時代の人たちは会社だけでなく、政治家でさえも劇的な変化を受け入れていないように見受けられます。昨今の政治家は発言はとても勇ましく即時的な行動を行うかのように見えるのですが、実際は時代のブレークスルーと言えるような行動したことを見たことがありません。それが失敗であったとしても、です。
インターネットを主としたIT技術の目覚ましい発展により変化の時代が当たり前になる時代がくると言われて久しいですが、実際はまだしばらく量の時代が台頭すると見受けられます。
当事者の我々は息をひそめ準備をする(まず量の時代の人たちの退場を待つ)
量の時代が根強くのこる現状で私達ができる事はなにか。私は次のように質の時代が到来するまでにひたすらに準備をすることだと考えます。
- 量の時代のほとんどの人たちの退場をまつ
- 量の時代のわずかな人たちと共に量の時代の「正義」となる思想・情物の仕組みを一掃する
- 質の時代に対応できるように突貫工事で思想・情物の仕組みを構築する
- 質の時代を迎え入れる
- 突貫工事で作った思想・情物の仕組みをブラッシュアップする
- 質の時代に対応する
ここでキーとなるのは「量の時代のわずかな人たち」です。レジェンドの人たちの事を指します。レジェンドは量の時代の「正義」に従わなかった少数派です。私は何のことわりもなく章"量の時代に何があったのか考察"でレジェンド(今は嘱託の大先輩)の話をしました。量の時代のほとんどの人たちと明確に区別をしたかったからです。
次節で詳細を述べます。
少数のレジェンドと共に立て直しへ
私はレジェンド達の協力なしで質の時代を迎えることは不可能であると考えます。変化に対応できるような体制を構築するために基本となる知識やノウハウがないからです。彼らは量の時代に驕ることなくコツコツと知識を蓄え、周りの反対を押し切り孤独に実践を続け自らを研磨し続けた、猛者です。
私はまず彼らをすくい(救い)あげることが必要と考えます。レジェンドが量の時代の「正義」に従わなかったことで、組織による不遇の扱いを受けてきたからです。私は彼らが無理やり働きアリの法則における”下位層の2”(引用:Wikipedia)に追いやられてしまったのではないか、とさえ思います。
具体例としては、この記事で述べた嘱託となっているレジェンド、過去記事のレジェンドになれたであろう会社ウラミーマン、ある分野のみに超特化したためにジェネラリストの適性がなく組織から”奇人”扱いされている人たちです。
レジェンドをすくい上げた後、量の時代のほとんどの人たちの退場を静かに待ちます。そして残された私達は彼らとともに質の時代に対応するべく遮二無二、体制をスクラップ&ビルドです。今まで止まっていた時間を取り戻すために。
私は、もしかしたら、きたるであろう質の時代が私達の世代にとってブレークスルーを生み出すための最初で最後のチャンスなのかもしれないと感じます。
変更履歴
記事UP
・冒頭の結論追加
・章「質の時代の幕開け」の内容を以下の節に分けた
→節"量の時代の人たちへの影響"
→節"質の時代:実態は多品種少量の実装"
・全体の以下を修正
→団塊・バブル世代に対して「ほとんど」を追加
→誤字脱字を修正
・章「日本にとっての質の時代はいつ来るのか」追加
・章「概要」を以下変更
→ブログカードに"参考記事"を付与
→量の時代・質の時代の構成を追記
・章「日本にとっての質の時代はいつ来るのか」追加
・誤字訂正:出生率→出生数
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