30歳超えても彼女なし魔法使いに転生済みの私でしたが、今では結婚し親となってとにかくせわしい毎日となりました。
今まであまり愛について考えてこなかった(というより、テーマの重さから、私が扱えると思えなかった)のですが「あ、たぶんコレかも」と思ったので拙いながらもまとめました。自分にブーメランは承知です。
結婚式で誓う愛:愛の誓い
私も妻と結婚式を挙げました。当時、結婚式は色々な形が形成されつつあったと感じます。今までと同じく会社・友人・親族の人たちが集まる形式、親族だけですませる形式(職場の人にも何も言わない)、フォトウェディングのみ、といった具合です。Wikipedia(結婚式)を見てみてください。
結婚式は色々なやり方がありますが、どのような形にせよ、共通する内容もあるわけで、それが愛の誓いだと考えます。
人前式をれいとすれば、愛の誓いでは聖職者はこのように問いかけをします。
汝◯◯は、この女/男△△を妻/夫とし、良き時も悪き時も、富める時も貧しき時も、病める時も健やかなる時も、共に歩み、他の者に依らず、死が二人を分かつまで、愛を誓い、妻/夫を想い、妻/夫のみに添うことを、神聖なる婚姻の契約のもとに、誓いますか?
結婚式, Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B5%90%E5%A9%9A%E5%BC%8F
新郎新婦はこう答えます。「はい、誓います。」その後は慎みなく式は進み、披露宴や1.5次会と様々な形の進行となるでしょう。そうやって二人の門出は終わります。
しかし、なぜ、たった1日のために何か月も綿密に打ち合わせをし、たった1日のために数百万円もぶっ飛ばすような結婚式をするのか。
私は重い重い、果てしなく重い、背負いきれないほどの愛の誓いをするための儀式だったのじゃないかと考えるようになりました。
そのために、大枚をはたき愛の誓いの場を作り、お互いが後に引けないような状況に身を置き、ようやく今後に待ちうけるひたすらに無常な日常に向かう「覚悟」を持つための儀式だったのじゃないかと。
「貴方のための私」と「私のための貴方」
結婚式を挙げた二人には何が待っているのでしょうか。日常です。ハネムーンという方も多いでしょう。しかしハネムーンは長い二人の時間の中では一瞬ともいえる一時的な時間です。
では、日常には何があるのでしょうか。家族を養うためにどちらか、または双方が働くこと。そして衣食住を共にすることです。ゆくゆくは子供(達)を育てることも加わるかもしれません。
日常では何が必要なのでしょうか。お互いが役割を全うすることが挙げられるでしょう。それだけでしょうか。いえ、それだけでは夫婦生活は上手くいきません。お互いがその役割を背負いきれなくなった時、背負いきれなくなった分を自分で持てることが必要があるからです。月並みな表現で言えば、思いやりをもつ、でしょうか。では、それがどれだけできるでしょうか。答えは言わなくてもわかると思います。口で言うことは簡単です。
ここでわかることは、日常はひたすらに二人を追いつめるということです。つまり、それぞれの分担した役割ですらとてもとても重い役割なのです。自分のことで手一杯になるのです。
そこからさらに相手がくじけそうになった時、手を差し伸べられるかどうかが肝になります。
「貴方のための私」であることが必要なのです。
手を差し伸べる。とても素晴らしい言葉ですが、それは訓練をしない限り習得は不可能です。本来、人間は物心がついたとき、相手に何か施しを与えたら見返りを求める打算的な生き物であるからです。夫婦生活の日常ではそれが裏目にでるわけです。
仮に見返りを成立させる場合を考えてみれば、お互いが完璧に自分の役割を全うすればよいでしょう。完全なギブアンドテイクです。当たり前ですが、そんなことはできません。
しかし、実際に完全なギブアンドテイクをあたりまえと疑わない人がいることも事実です。例えば、風邪をひいて身動きがとれない専業主婦のパートナーがやっている洗濯・調理・掃除といった内容を、当人が家にいる時ですらやらない、と言った具合です。大抵、当人はパートナーに向けて「あなたの役割だよね?」と疑いもなく投げかけられるものなのです。
「私のための貴方」になってしまうのです。
以上の内容を鑑みると、夫婦生活の日常における、役割の考えのみでは「私のための貴方」の意識を持ってしまった時点で、夫婦生活を成立させることは難しいと考えます。
ギブする義務:愛の強制
そんな状況で夫婦生活がうまくいくでしょうか。火を見るよりあきらかです。やはり、お互いが手を差し伸べるべきです。しかし、お互いが日々疲弊し続ける中でひたすらに手を差し伸べることは強制的な行為ともいえます。あなたがどんな状況であろうとも、です。
まるで、義務です。
ひたすらに手を差し伸べると述べましたが、これは愛の強制になりうると考えます。愛は見返りを求めないからです。
それができて、ようやく夫婦と言う形が成立する土台ができてくると考えます。ここまでやって土台です。
なぜならば、もしあなたは子供を授かりたいと考えた場合、愛の強制に慣れていなければ、いつかは破たんするからです。たとえ報われなくても、親は子供に愛を与え続けることを当たり前にしなければならないからです。
割愛しますが、過度な見返りを意識したり求めた途端、育児はある瞬間から音を立てて崩壊するものと考えてます。
ここで驚くべき事実があります。上記のようなとても難易度が高いことを、我々のような大半の親はヒーヒー言いながらも実践しようとしていることです。無意識であろうとなかろうと、です。結果は子供を見ればわかると考えます。
確実な見返りを求めることなく、一方的に与え続けられる愛を持っていることを感じることができたのであれば、私達はもっと胸を張ってもいいと思います。
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