後学のために、体罰について考察しました。親として考えたので育児カテゴリです。
こういった類の話は理想論にいきがちですが、現実はそんなに甘くないことはわかっているため、個人ながら現実的な解をめざして考察しています。書いた内容が今後の私にブーメランとなることも承知しています。
しかし、私はこういった類の話は親として必ず直面する、大きな課題であると考えてもいます。先送りしても結局逃れられないと思い、自分を追い込むことにしました。
以下、文体はである調です。ですます調は上手く文章が浮かばなかったためです。
目次です
背景
令和になってから、ますますコンプライアンス(以下、CSR)が叫ばれていることもあり、公共の場で立場の強い側が立場の弱い側を堂々と殴る蹴るということを目の当たりにする機会がめっぽう減ってきていると感じる。
では、令和になってから体罰が完全になくなったかというと、全くその気配はない。SNSの普及により今までニュースで報道されないような超ローカルといえる領域でも体罰が動画により簡単にアップロードされ、不特定多数の人の目に触れるようになってきていることから、体罰の実情の解像度が上がったのではないか、とも感じる。
以上のような体罰は立場の強い側の直情的な部分が主要因となりやすい。理由として、直情的な体罰は定常性をもっている割に体罰に値するような根拠に見合ったものはないためである。
私自身、そのような直情的な体罰は根絶すべきと考える。
一方で、どうしても体罰という手段を取らざるを得ない人もいることは事実であると考える。つまり体罰は絶対にだめ、というものでない。それは立場の弱い側が倫理的に逸脱した行為を行った場合で、立場の強い側が長い時間をかけて説得・説教・警告をしても、効果がまったくない場合である。
2023年で私が受けた最もインパクトのある一例として、参考文献(1)よりスシローの醤油さしペロペロ事件がある。この少年の普段の素行は知る由もないが、事実として少年は倫理的に逸脱したことを行ってしまい、社会現象となってしまった。
もし、今回のような事が起きる前に誰かが無理やりでも彼を抑えることができれば、総合的にみて彼のためでもあっただろうが、結果そうはならなかった。誰も彼を止めることはできなかった。
さらに、私が当事者として事件当日にスシローで少年の隣の席にいて、少年の犯行を目の当りにしたら、少年の将来の影響を心配した上で、熱い説得から警告をし、それでも通じなかったら殴ってでも彼を止めることはできたのだろうか。いや、私も彼を止めはしないだろう。止めた場合に予想される結果が「こちらから言ったことによる報復の可能性が高いことを考えると、心配よりも割に合わない」と判断するからである。つまり、赤の他人である私は少年を見捨てることを選択するのである。
今回は上記の内容をふまえ、体罰について考察した。
暴走する体罰:立場の強い・弱い側の考えの放棄
この章では立場の強い側だけでなく弱い人の双方が結果として体罰を許容してしまっていることを述べたい。先にいっておくが、体罰が常態化している状況においては、この事態を招いた責任として立場の強い側が負うべきである。
まず、そもそも論は先送りして"今"に着目して体罰が常態化している状況を考察する。そもそも論を先送りした理由として、我々は基本的にできあがった組織に属する場合がほとんどだからである。
なぜ双方かといえば、立場の強い側は他の手段を考えることなしに立場の弱い側を従わせるために体罰を選び、立場の弱い側は体罰が運命であるかのように捉え抵抗することを諦めてしまっているからである。
例として参考文献2を引用する。この文献は日本の運動部における体罰の常態化が「軍隊起源説」でないことを述べている。私も同じ考えである。
このように考えてくると「軍隊起源説」とは,諸問題の責任を軍隊に被せることである意味済ませてきてしまった,戦後の日本社会の中だからこそ存在しえたロジックであったと言える.そしてそれは,我が国の多くの人々が戦争責任を考えることへ目が向かないのと同じく,運動部に見られる体罰の問題性について,私たちが徹底的に考えることへ向かう芽を摘んでしまうロジックでもあったのである.
鈴木 秀人(2020), 我が国の運動部に見られる「体罰」に関する一考察:「軍隊起源説」の検討を視点にして, 体育学研究, 65巻 p.220
参考文献では、日本における体罰は日本が軍国になる前から行われていることを述べている。このことは、日本の体罰は軍隊経験者がつくった風土であるということが誤りであることがわかる。そのため、双方の立場の人が体罰によるイメージを軍隊を踏襲したやり方だから、作法であるから、だから従う、といった具合に納得をしてしまう事が問題なのである。
ここで発生しているのが軍隊を抽象化していることである。しかし、なぜ軍隊かといえば、大して明確な理由はない。しいて言えば他者とイメージを共有し易いから、といった具合であろう。なんにせよ、根拠のない抽象化である。
根拠のない抽象化による納得をしてしまえば、立場の強い側は自分がやっている体罰を肯定し続ける。
仮に、立場の弱い側たちから抵抗される場合があったとしても、より強烈な体罰をすればよい、黙らせればよいと思うだろう。それに伴い、立場の弱い側は団結して声を上げなくなっていく。逃げることを考えなくなっていく。事態はますます悪化するが、個人ではどうにもならないと思い込んでしまう。
実際、立場の弱い側は体罰が常態化した環境に身をおいてしまった場合、抵抗や逃げることすらも考えなくなっていく。その場にとどまってしまう。
そして、立場の強い側は抵抗しない立場の弱い側をみて体罰に拍車をかけるようになる。まさに負の連鎖である。
この章の内容では、先に言ったとおり、避難されるべきは体罰をする側である。立場の弱い側はなにも「人として間違ったこと」をしていないからである。
ただ、立場の弱い側も抵抗や逃げることを放棄してはいけない。結果論で冷たいことを言うが、とにかく考えることを放棄した時点で、立場の弱い側も非難されるべき側になってしまうことを忘れてはいけない。
繰り返すが、体罰において最も悲惨なことは、体罰そのものを仕方ないと納得し、考えることをやめて体罰を許容してしまうことである。とにかく考え、抗うことである(逃げる、ということである)。
過去に私も痛い目を見たので、肝に銘じている。
体罰の起源を考える:例を交えて
先ほどは体罰が常態化した組織で立場が強い人・弱い人双方に体罰について述べた。次に先送りしていたそもそも論である体罰の起源について考察をしていく。
ここで言う体罰の起源とは、属する組織の状態が体罰のない状態から定常的にされる状態になる、始めの段階のことをいう。
参考文献3では、スポーツにおける立場の強い側からの体罰は「未熟な指導」が原因と述べている。これについても私は賛成である。参考文献3をもとに深掘りしていこうと思う。
はじめに、「未熟な指導」は何が未熟であるだろうか。私は人格的に未熟さであると考える。なぜなら、人格的に未熟なものはその思慮の浅さから、立場の弱い側に対する指導の手段として、感情を抑えることなく、常に簡単な手段しか取らないからである。簡単な手段とは殴る・蹴る、つまり体罰である。
人格的な未熟さは本人の態度と紐づく。言い換えれば、本人の態度は人格的な未熟さを写す鏡である。何を写すか。本人の自身に対する甘さである。本人の甘さについては参考文献3にも記載あるため、ご興味あれば見ていただきたい。
ここまでは参考文献3をもとに説明したが、より具体的な例として、人格的に未熟なものが指導の立場に立ったときの場合を挙げる。あなたの職場に人格的に未熟な上司がいる場合を考えよう。
あなたは仕事(正社員・アルバイト・パート何でもよい)でミスをした。さて、上司は1,2回なら悪癖をつきつつもその場は収まるだろうか。
違う。いきなり手が出る。たとえワザとじゃなかったとしても(大抵そうだが)。
初めのうちはあなた自身、信じられないと怒りを露わにするだろうが、何度も何度も手を出されるとしよう。すると既に自分の周りの人が上司を恐れている雰囲気もあり、あなたもしだいに持っていた怒りが恐れへと変わっていくだろう。あなたは上司に恐れを持ったとしても、上司は体罰をやめない。
上司の観点で考えてみる。なんどもあなたに体罰を振るった上司は、なぜあなたに体罰を振るったのだろうか。あなたがミスをしたからである。悪い結果を出したからである。
上司は悪い結果をだしたからには対策をと、体罰という安易な発想をする。ミスをした代償にこんなに痛い目にあったのだから、次もこんな目にはあいたくないはずだ、だから次はミスをしないだろうと考える訳である。体に分からせるのである。
結果、どうだろう。確かに組織内でミスはなくなっていく、ように見えてくる。上司は気をよくするだろう。結果が目に見えてくるのだから。そのミスが隠蔽されていることを知らずに。
しかし、隠蔽も上司としては正直どうでも良いことなのである。今、仮初めの結果だとしても、自分の目の前にある事柄が快か不快かであることが何よりも大事だからである。人格的に未熟なものは、どこまでも、自分意外のことは考えられないのである。
あるときは何もミスをしていないのに突然その上司の元に呼ばれ、突然手と足を出されるようになる。顔以外の場所に。あなたは結果に対する体罰であればマシと感じてしまうだろう。
上記のように、人格的に未熟な者を指導の立場にした時点で、組織の体罰化は一瞬にして達成される。
当たり前な理由・できない理由
先程の人格的に未熟なものが指導の立場に立ったときの例で、立場の強い側が決定的に欠けているものがある。相手を思いやる気持ちである。当たり前な話である。しかし当たり前だからこそ決定的なできない理由となる。月並みであるが、本人の性格は簡単に変わらないからである。
昨今はCSRが叫ばれている。会社も組織としてハラスメントに敏感になっている。立場の強い側は否応なしに体罰を抑圧する方に従わざるを得なくなる。しだいに立場の強い側は表向き何もしなくなっていく。
しだいに、立場の強い側は不満を抱えて毎日を過ごす。立場の弱い側に指導において最も簡単で即効性のある方法を制限されてしまったからである。
相手の気持ちを考える?個人にあった指導?ふざけるな、言っても効かないなら手を出すしかないだろう。と思っているであろう。
私は人の心を見る超能力をもたないが、もし立場の強い側が先程述べたような不満を抱いた心境であるならば、態度を改めるだろうか。いやしないだろう。心の中で思ったことは行動になって他者の目に入ることで分かる。
では、次にどうするのか。体罰の次に簡単で効果的な方法は何かを考えるだろう。それは暴言、罵声、いわゆる精神的苦痛である。体罰に相当する手段である。
言っても効かないならこたえるまで言い続ければいい、ということなのである。この時点でも、立場の強い側は立場の弱い側が精神的に追い詰められることをハナから考えていないことは態度から分かる。
ここまでして人格的に未熟な立場の強い側は体罰や相当する行為をするのはなぜか。理由を考えてみる。
私は立場の強い側はその立場故に経験する苦痛と、押し寄せてくるうず巻いた感情に耐えられないためである、と考える。
当の体罰を振るう本人が、すぐにでも自分が受けた苦痛と感情のはけ口を誰かに押し付けたい、スケープゴートしたい、ということである。こうなった場合、どこまでも自分は正しくなる。いいかえるなら、正しくしなければ気がおかしくなってしまうのである。
あたり前な理由とできない理由、あわせ持った人格的に未熟なものが大量に出てきたことは、戦後の日本が高度経済成長と人口増加の一途をたどったからと考える。人格的に未熟なものだろうが、肥大化する組織においてリーダーのポストを与えなければいけない、そんな背景があったと考える。
なんにせよ、もはや救えない。それ以上の考察は本人の先天的な素養、今まで過ごした環境の問題の領域に踏み込むのであろうが割愛する。
そして、この章の内容は、親としての私へのブーメランとなることを付しておく。
良薬としての体罰:殴られた方がマシなもの
ここまでは人格的に未熟な立場が強い者が行う体罰について述べた。ここからは立場の弱い側に焦点を当てて考察する。
述べたいことは立場の弱い側にとって成立する体罰がある、ということである。つまり"殴られたほうがマシ"と言える体罰である。
そんな体罰があるだろうか。ある。体罰よりも本人にとって影響の大きな出来事がある場合である。
この場合、体罰は本人を救う良薬となる。
例として挙げるなら、背景で既に述べたが、参考文献(1)のようなスシローの醤油さしペロペロ事件のような事柄である。
事実として少年は誰にも止められることなく、参考文献(4)にあるとおり、株式会社 FOOD & LIFE COMPANIESから「刑事・民事の両面から釈然とした対応」を受ける結果となった。ここまで来てしまえば、もう誰も事態を止めることはできない。あとは淡々と然るべき形に事態は着地するだろう。
では、少年を止める術があったのだろうか。私はあったと考えている。次の2点である。
- 言葉で止める(説得・説教・警告)
- 殴ってでも止める(体罰による抑止)
やっていること自体は前章の人格的に未熟な立場の強い側がやっていることそのものである。しかし目に見える行動は同じでも、決定的に違うものがある。それは相手を思いやる気持ちである。人格的に未熟な者が持ち得なかったものである。
止める側は少年の将来を案じている。”やってはいけないこと”が”どれぐらいの影響”をもち、事が起こってしまった後では”本人で修復可能は不可能である、一生を棒に振ること”を分かっている。
だからこそ”事態の重さ・悲惨さ”が分かり、今すぐにでも少年を止めなければという心があるからこそ、手を出してでも少年を止める。
このことから、体罰というものは相当の倫理性と論理性をもったうえで行わなければいけないと考える。
一方で、これほど大きな倫理性と論理性をもった止める側の思いがあったとしても、それは本人に伝わるのだろうか。
おそらく、”その時その瞬間”は十中八九、伝わらないだろう。仮に頭の中でいけない事とわかっていたとしても”その時その瞬間”はやってはいけない事をした時の得も言えぬ高揚感が勝っているはずで、ドーパミンがあふれ出ているような一種の興奮状態の中にいると考えられるからである。
そんな立場の弱い側の状態では言葉はおろか、殴って止めようものなら報復される可能性は高い。ましてやCSRが叫ばれている昨今、どのような事情があれ殴った時点(手を出した時点)で、それをダシに、逆に訴えられる可能性が高い。訴えられたら、止める側の思いはすべて言い訳に変わる。
止める側のリスクが高いのである。言葉で言っても伝わらない。殴って止めることは許されない。たとえそれが明らかに本人の人生を棒に振るレベルの出来事を強制的に止める手段としての体罰であったとしても。
根拠ある体罰:立場の強い側・弱い側の双方の合意
ここまでくると、体罰は扱いがとても難しい手段であることがわかる。
体罰は行う側が相当の倫理性と論理性を持ったとしても(おおげさに言えば、体罰を行う側が、エイルような慈悲深さと理神論のような背反する関係を持ち合わせている賢者のような者としても)、その思いが相手に伝わられなければ、なにも解決とはならないからである。
これ以上何が必要なのか。章題の通りであるが、双方の合意である。
体罰をする場合にお互いに合意をとるのである。具体的には次の通り。
補足として、下記の内容は、幼少期のような初等教育のような人格的にまだ形成段階である状態は除く。
- 立場の強い側:体罰を実施する内容を漏れなく説明する
- なぜ体罰を実施するのか
- 体罰はどこで実施するのか
- 体罰は何回実施するのか
- 体罰はいつ実施するのか
- 体罰はどうやって実施するのか
- 立場の弱い側:上記1.に対し納得し、甘んじて体罰をうける
上記の内容で立場の強い側・立場の弱い側、双方が合意を取った場合、ようやく実施ができるものと考える。
ある種の、契約書のない契約をさせなければいけないのである。
根拠が通じない場合:無念、他者の干渉不可
前章のような双方の合意による体罰は、現実的な観点において成立するだろうか。私自身、記事を書いておきながら、成立しないと考えている。
なぜなら、立場の弱い側が前章のように体罰を実施する内容を漏れなく説明された内容に対して、どれぐらい納得ができるかは、立場の弱い側である本人の倫理性と論理性が大きな決定要素となるからである。つまり、立場の弱い者は体罰を受けることに対する”罪の重さ”を感じ取り、"腹の底から納得"をする必要があるのである。
立場の強い側に相当の倫理性と論理性が必要であることと同様に、立場の弱い側も相当の倫理性と論理性がなければ、体罰という手段は実施できない、ということなのである。
仮に、体罰を受ける立場の弱い側が、体罰に対してどのような理由であれ納得ができないのであれば(拒否反応を示してしまえば)、そこから事態は進展しない。
極論、立場の弱い者が明らかな罪を持っていたとしても、本人が殴られたくない, 痛い思いなんかしたくない, ある程度の非は認めるが起こった出来事すべてで自分が間違いだったのかと言ったら絶対そうじゃない、と一抹でも感じ考え、異を唱える、少しでも態度に現れるのであれば、立場の強い側・立場の弱い側で双方の納得は成立しないのである。
この場合、もはや第三者として当事者に関与は不可能であると考える。
仮に、双方の納得を得られない体罰を強行したとしよう。結果論として体罰をやった事実のみが残り、真実は闇に消え、あらゆる憶測のもと拡散だけがされていくだろう。
また、体罰じゃなくとも、立場の強い側が説得・説教・警告による手段を用いても、立場の弱い側が立場の強い側へ報復をする可能性も考えられる。立場の弱い側が”うっとおうしい”の捨て言葉を吐きつつその場から立ち去ればまだいい。大抵は立場の弱い側が無視→立場の強い側が説得・説教・警告を続ける→立場の弱い側は我慢ならならくなる→言い合いが発生する、最悪お互いがとっくみ合いになる可能性が高いだろう。
要は、立場の強い側にとっても割に合わないのである。立場の弱い側が事実として公序良俗に反していても、注意した立場の強い側が結果、罵声や暴力を受ける事態になれば、注意する側も目の前の事態に対して納得ができる訳がない。
また、その後の事後処理まで考えると、赤の他人ごときに自身の人生における時間をささげる事に納得できなくなってしまうだろう。私自身、そう思う。
以上より、体罰を成立させることは、実に高度な領域で成立する事象なのである。
繰り返すが、立場の強い側・立場の弱い側の双方に高い倫理性と論理性が必要である。その上で体罰はやっと成立する話である。
殴られた事に関する美談をたまに聞く。これも、立場の強い側・立場の弱い側の双方が人としても、能力的にも高度なのである。
立場の弱い側が"あの時殴らなかったら、自分がやったことの愚かさを自覚しすることはなかった、自分が情けない"という美談は、前提があるということである。
現実問題、双方が高い倫理性と論理性をあわせもった理想的な状況となる確率は、言わなくてもわかるだろうが、ないに等しい。ましてや立場の弱い側は赤の他人である。それはこの記事を読んでいるあなたが感じることではなかろうか。
結局、立場の強い側が”割に合わない結果”を少しでも浮かべてしまった場合、関わらない方がいい、という判断となり、事態を止めるストッパーはなくなり、進むところまで事態は悪化していくのである。
親の責任:現実的な解を考える
上記のような内容を踏まえたうえで、今後、私達は体罰とどう向き合っていけばよいのだろうか。考察をしてこの記事を終わろう。
現実を度外視した理想論はこうである。
これまで述べてきた内容と重複するが、これからの将来ある若者に対して次のことを身につけてもらいたい。
- 自分が立場の強い側になり、立場の弱い側が明らかに倫理的に逸脱した行為を行った場合、倫理的観点と論理的観点であらゆる観点で検討した上で体罰を実施できるか、考え決断することができる
- 体罰を実施する立場の弱い側に、なぜ体罰に関する説明を行うことができる
- 立場の弱い側が納得をした場合のみ、自分が考えた体罰を実施できるよう、しっかりと自らを自制できる
- 他者が認めるほど倫理性と論理性を心得たとしても、それとは無関係に体罰に類する身体的苦痛や精神的苦痛を行う、人格的に未熟なものが存在するため、有無を言わさない護身術を習得する
上記の項目は、なぜ対象を若者に絞ったかと言えば、若者以降の年齢の人種はもはや自らの認識を変えることは困難だからである。ちなみに何歳を若者というかは個人がどれぐらい"柔軟で変化に富んだ事象”を受け入れることができるか否かによって変わる、心の年齢であることを付しておきたい。私も心は若くなることに努めているが、やはり実年齢が若い現役世代には敵わない。わが子をみていて強く感じる。
理由としては、歳をとればとるほど責任の世界に身を置くことになるため、劇的な変化に対して反応しようとすると、反応した自分自身の責任を負いきれないから、と考えている。詳細は割愛する。
理想論を言い過ぎた。先ほど私は現実を度外視、といったことから、私はこの内容を全ての若者に実践してもらうことは不可能であると考える。
当たり前な話である。一つ前の章で述べた通りであるが、上記の項目を述べた私と世の若者は赤の他人だからである。そんな赤の他人同士が意思疎通できる場合は限られており、思想面・心理面で共通する考えがある場合に限られるだろう。
じゃあ、現実的は解はなんなのか。それは関わりをもった若者に上記の項目を伝えていくことである。そんな若者と関わる者はいるのか。いる。学校の先生や親である。
私の場合、教員免許を持たないので、親として上記の項目を述べるべきと考えている。
もちろん、簡単ではない。相当の倫理性と論理性をあわせもった人になって欲しい、と口で言ってわが子がエイルような慈悲深さと理神論のような背反する関係を持ち合わせることは、神に誓って、ない。そんな考えは親のエゴである。
もちろん、本記事の内容を心得たとしても、お金に困らず安定した生活ができるかといえば、そんな保証もどこにもない。
実際は子供が言う事を聞かない・自分の思ったことと1nmでも違えばひどい癇癪をおこす場合だってある(特に2歳ごろ)。そんな子供に対しても基本、体罰はつかえない。体罰を使ってしまえば、ミイラ取りが本記事の内容である人格的に未熟なミイラになる(※)。しかし、状況はやすやすと改善しないだろうからストレスと疲労はたまり続ける。常にジリビンなのである。
※恐ろしいほど強く噛まれたりするなど引き離すため反射的に叩く場合があるが、それは条件反射のようなものなので例外であると考える。それを理性で押さることは非常に難しい(親になればわかる)
数年・数十年と長い年月をかけて、行動で示し言葉で伝えることを滾々とやっていくしかないのである。
子供は親が思うよりも親をみている。知らず知らずのうちに親の行動と言動から”親の思想”を推測し、自らの糧にする。
気の遠くなる話である。本当に信じて大丈夫なのだろうか。不安しかない。
それでも、信じるのである。信じるに値するのである。親としての私の実感である。
根拠もなしに親が子供を信じてみようじゃないか。それも、親の特権だからである。
参考文献
- 醤油さしペロペロ、勝手にわさび乗せ…2023年の回転寿司チェーン店トラブルを振り返る, Yahoo Japan! ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/e9bd81ae02afe782a68ffe329916248ee83be3b3【直撃】スシロー “ペロペロ高校生” への賠償請求に母が憔悴告白「悪いのは私たちなので…償っていくしかない」, Yahoo Japan! ニュースhttps://news.yahoo.co.jp/articles/bd9939f724e8cd1a48bc84191b964a650f2587d7(リンク切れ) - 鈴木 秀人(2020), 我が国の運動部に見られる「体罰」に関する一考察:「軍隊起源説」の検討を視点にして, 体育学研究, 65巻 p.205-223
https://doi.org/10.5432/jjpehss.19063 - なぜ体罰がうまれるのか・・・? すべては未熟な指導が原因・・・!!, パシフィックバスケットボールアソシエーション
http://www.pba-chiba.com/smartphone/businessblog/290_2016-11-27_07-20-00.html - SNS 上での迷惑行為に対する報道その他の内容について, 株式会社 FOOD & LIFE COMPANIES
https://www.food-and-life.co.jp/wp-content/uploads/2023/01/20230210.pdf
変更履歴
記事UP(未完成)
記事UP(完成)
誤字脱字修正
・章「背景」
参考文献1のリンクが切れていたため最新のものに更新
それにあわせて章「背景」の文言変更
変更前:直近で最もインパクトのある一例として、
変更後:2023年で私が受けた最もインパクトのある一例として、
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