子供ができて数年経ちました。
まだ先ですが、私も子供に対して記事タイトルについて面と向かって言わなきゃいけなくなる時が来るんだろうなと思ったので記事にしました。
(同じ境遇の会社の同僚ともたまに話していたりします)
こういった話をするとき、前提がない状態で話が進んでしまっているな、と感じたのもあります。
もちろん個人の見解です。
イジリってコミュニケーションにおいて凄く高度なものなんだね、「お互い思いやり」がないと成立しないんだね、という話です。
なーんも難しくなく言いたい事はシンプルなのに、長くなりました。
以降、である調です。
目次です
前提:他人とのやり取りにおける役割分担
人は他人と関われば組織の行動が発生するわけで、お互いがやり取りをしていく中で知らず知らずのうちに本人が望む望まないにかかわらず、お互いの立ち位置をふるまいを意識し、役割としてこなしていくことになっていくものである。人のそれぞれの役割が決まることは組織に属する者の自然な流れである。
そんな中で、やり取りをしている当人同士はやり取りを続けていく中で気心を知れてくるうちにじゃれ合いにも似たやり取りが出てくる。要はふざけ合いである。
ふざけ合いはよくイジリ合いという言葉でよく聞くと思う。
本来、イジリ合いはお互いが不快にならないための線引きが必要となる。
要するに「この人ならここまでの悪ふざけまでやってもよい」といったものである。
お互いが不快にならないための線引きはお互いのやり取りの中で少しずつ培われていく。はずである。
しかしながら、お互いが不快にならないための線引きがうまくいかない場合がある。どちらかが不快な思いをする場合である。それは不快に感じた本人の尊厳が脅かされた場合が例として挙げられよう。
ここは推測であるが、やり取りをしている人たちのどちらかが、担う役割に対して納得していない場合であると考える。
イジリを受けている側の立場の者は、時間が経つにつれ不快感が増すことになり、それはやがて嫌悪感と変わり、嫌悪といったはっきりとした認識となる。最悪の場合、嫌悪は憎悪になる。
しかし、イジリを受けている側の立場の者は認識が憎悪に変わったとしても、イジリの拒否を態度で示すことは難しいだろう。
なぜなら、イジリを受けている側の立場の者は、役割的に孤立していることがほとんどだからである。
1グループでイジられる側の者が2人以上いる集団を見たとこは、少なくとも、私にはない。
ここまでくると、イジリを受けている側の立場の者からみた認識はイジメへと少しずつ変わっていくだろう。
始めはお互いが自分の役割をこなしていったにも関わらず、最後はイジメに化けるのである。
最悪の場合、最悪の事態に発展する可能性もあるわけである。当事者ではない第三者(例えば学校の先生など)が当人達をみれば、残るものは双方の認識の相違といった結果のみである。
上記のような、イジリからイジメへ状態の遷移はどうやって発生していくのか、私なりに考えたため以下にまとめた。
言葉の苦手領域を考える
人は言葉でコミュニケーションをするので、そこを切り口に色々考えていきたいと思う。
まず、言葉が担う得意な領域と苦手とする領域を自分なりに考えてみた。
言葉は常に明瞭な意味を提供する。
一つ一つはいわば1,0のデジタル信号のようなものである。
1,0が連続に繋がることで一つの電文のような情報となるように、言葉もまた一義的な意味を持った文章となる。
逆に言えば、言葉は明瞭でないものを言い表すことを相当に苦手とすることを意味する。
明瞭でないものの代表と言えば感情も該当する。
具体的には私がざっと思いつく感情を表す言葉を考えてみる。倫理観を度外視してたものも含めている。
【感情の言葉リスト】
嬉しい、楽しい、最高(サイコー)、悲しい、哀しい、涙がちょちょ切れる、怒る、むかつく、腹立つ、うざい、ぶっ○す、○ねや、カス、キモイ、キモッ、ヤバい、ヤバッ、F○ck、怖い、恐い、ビビる、チビる、嫌い、生理的に受け付けない、恥ずかしい、ハズッ、マジで
挙げればキリがないと思う。
ネガティブな表現が多いのは私の育ちが悪かったと言える(この記事を書いている時点で気づくのは皮肉である)。
反省せねばならない。
感情の言葉は意味として1,0のデジタル信号のように明瞭であるが、それは事象を上澄みしただけのごとく、感情の言葉だけでは何の意味も持たない。
例えば、嬉しいという言葉を唐突に聞かされたとする。あなたはどう反応するだろうか。
「なあ、俺マジで嬉しいことあったんだけどさ!」
「そうなんだ!」
この話はおわり。
・・・・・・・そうはならないだろう。
あなたは大抵「何がそんなに嬉しいの?」と聞くと思う。
理由が分からないからだ。
あなたは相手が嬉しいと思う原因を知らなければ、嬉しいという表現に納得できないのである。
(全員が全員そうともいえないので、例としてとどめてほしい)
そういうわけで、感情には必ず感情に紐づく背景が必要となる。
背景がなければ感情は生まれない。
つまり、人は真に”無”の状況からいきなり感情を出さないわけである。
お互いの背景を目合わせすることがどうしても必要なのである。
感情を言葉で表さなければいけないことを私なりに述べたかったため、ごたごたと理屈をこねてしまった。
当たり前と言われればそれまでであるが、なんとかして述べたいので述べた。
「見えざる契約」
ここではイジリにおける「見えざる契約」という概念について考えたい。
イジリとイジメの区別について考えるとき、区別であるから、そこには何かしらの線引きがあると考える。
私はこの線引きが双方のやり取りにおける、ここではイジりとイジメにおける「見えざる契約」の有無だと考えている。
「見えざる契約」は、事前にお互いが約束事として共有するべき内容を明記してない状態で、やり取りのルール(イジりのルール)を暗黙に合意する、といったものである。
一つ一つルールが決められていくということは、まさしくお互いが合意を形成、契約をしたということになるのではないか!?と考えたわけである。
「見えざる契約」は相当に高等なものである。
なぜなら内容のすべてが非言語領域のものだからである。
非言語領域であることは、文章として明文化されていないことによるルールの統一がされていないことを示す。
考えてみなくてもそりゃそうですよね、である。
いちいち初見のお互いがやり取りをする中で「あなたとやり取りしたいのですが、まだお互いの事をよく知らないので、お互いが不快にならないためにこれだけの事は守っておきましょうね」と契約書を取り交わすべきだ、と言えば、大人でもそんなことするかという考えになるし、あり得ないのはわかるかと思う。
てかお見合いかよ。
しかしながら、実際、上っ面ではない本当に仲が良いグループというはイジりにおける「見えざる契約」を取り交わされているように見受けられる。
といってもイメージが湧かないと思うので例を考えた。
仮に、グループの中でイジりを仕掛ける側がされる側にとって不快と思う出すぎた真似をしたとしよう。
その時、された側はしっかりと不快感を持ったことを示す(理由を添えたうえでやめてほしい、といった旨を示す)ことができるし、仕掛ける側は示された不快感に対して真摯に受け止め、謝り、次の相手への仕掛け方を改める。
この行為が「見えざる契約」が成立した瞬間である。
上記のやり取りを繰り返していくことで、お互いのやり取りにおけるルールが一つ一つ決められていく。
「見えざる契約」の内容をアップデートしているわけである。
「相手への思いやり」という当たり前なこと
イジリにおける「見えざる契約」は概念である。
そのため実態が伴わない。
ということで、実態についても述べたい。
いいたいことは章題のとおり「相手への思いやり」である。
私はイジリにおける「見えざる契約」の実態は人の心から生み出される感情(喜怒哀楽)と考えている。
なぜなら、イジリにおける目的はお互いが悪ふざけをする(過度に行き過ぎた行為をする)ことで快感を得ることであり、そこに出される感情は”俺もお前も楽しい”だからである。
しかしながら、”俺もお前も楽しい”感情を生み出すにはいささか一方的なイジリではかなわないのは想像にかたくない。
やり取り上直接は関係ないが、しかしはっきりと認識できるパワーバランスを均衡にする必要があるからである。
パワーバランスの均衡は双方のやり取りにおいて一瞬ならまだよいが、持続してパワーバランスが崩れれば、ある種のカーストが形成され、一方的なイジリはイジメに化けてしまうのである。
では、パワーバランスの均衡の崩壊を避けるためにどうするか。
それは「相手への思いやり」といった、心理面におけるとても当たり前なものが必要であることも、想像にかたくない(と、私は考えている)。
「相手への思いやり」は言い換えることを考えるのであれば、イジリにおけるお互いの行動・言動の譲歩(悪ふざけにおけるルール決め)といえよう。
要は、お互いに我慢する、である。
なぜなら、お互いが悪ふざけをする(過度に行き過ぎた行為をする)ことにおいても、今度は「この人ならここまでの悪ふざけまでやってもよい」といった、ルールを外すなりの新たなルールがなければ悪ふざけに歯止めがかからないからである。
お互いが我慢をするということは、イジる側とイジられる側、双方の本音は見えないものであろう。
そうなれば、悪ふざけは相当に心における高度な技術と技能が必要になってくる。
心のコントロールが必要になってくる。
イジリにおける「見えざる契約」は人付き合いにおける腹六分目がちょうど良いを目指すための合意である。
また、お互いのパワーバランスの均衡を保つための「相手への思いやり」が必要である。
ここまでくると、イジリ合いという行為が成立しているということは、双方で凄まじく高度なコミュニケーションが成立されていることがわかる。
口にはだしていないにも関わらず、お互いが無線通信で1,0のデジタル信号(ルールにもとづいた電文)を送りあい、電文をお互いが決めたルール通り解読する(お互いが嫌な気持ちにならないようにする快楽を創出する)。そのやり取りが一瞬で当たり前のごとく行われるわけである。
凄技と言う以外、言いようがない。
「相手への思いやり」は訓練が必要
色々ぐだぐだ話したが、とりあえず「相手への思いやり」があればいいんでしょ?
ハイ解決。
とはならない。
ここで、当時(といっても、いつ頃の記事かは記録ないため不明)の私が感銘を受けて切り抜いた新聞の記事を引用したい(中日新聞なので愛知出身の方から貰ったものだと思う)。
画像はボヤけている。
当時写真を撮ったスマホが生産技術をしていたためレンズがキズまみれであったこと、私の不手際で記事をなくしてしまったため、撮り直しができない。
勘弁頂きたい。
注目する箇所は記事中ごろの”もう一人は、司馬良太燎さん。・・・・・”以降の記載である。
助け合うには「いたわり」「他人の痛みを感じること」「やさしさ」が必要で、この三つは「もともと一つの根から出ているのである。根といっても、本能ではない。私達は訓練してそれを身につけなければならない」。
加藤 幹敏(年代記録忘れのため不明), 旅立つ君たちへ,株式会社 中日新聞社
重要なのは、勝手に身につくものではく、訓練が欠かせないというところだ。
私は記事にある”もともと一つの根”が「相手への思いやり」であると考えている。
思いやり自体、人間が持つ本能であるという説もあるが、そうであるならばこの競争社会でもせめてステークホルダ内の相互利益が最優先されたり(いってみればWin-Winに腐心したり)、もっと大きなクソデカ主語が使えるなら世界は紛争がおきないわけで、やっぱり違和感は感じざるを得えない。
また、思いやりが人間の本能として身につけられたとしても、結局は使うことすらできなかったり、使いどころを間違えたり、使い方を間違えたりすることがある。人間だもの。
以上を考えると「相手への思いやり」も引用した新聞の記事と同様、訓練を経て身につけるものであるといえよう。
では「相手への思いやり」の訓練はいつ行われるべきか。
人の情緒が形成される期間に行われるべきである。
つまり、子供の時である。
であれば、訓練の担当者は親である。
親は子供を育てる責任があるため「相手への思いやり」の訓練者であり、さらに、責任者でもある。
なんと責任者とな。
この記事を偉そうに書いている私も例外なくブーメランである。
親は「相手への思いやり」を子供に身につかせるために何をすればよいのか。
これは前章の引用記事の内容をそのままと考える。
また引用したい。
司馬さんは、例えば友達が転んだ時に「痛かったろうな」と感じる気持ちを自分の中につくりあげ、それを積み重ねさえすればいい、という。
加藤 幹敏(年代記録忘れのため不明), 旅立つ君たちへ,株式会社 中日新聞社
私はこれが子供に教えることができる現実解であると考えている。
立派なご高説をせず、かつ、ちゃんと腹の底から納得したうえで話せるものと考えるからである。
年をとればとるほど、属する集団で既に結果が決まる
では実際に人との関わりの中で組織にいる場合だとどうなのか。
「見えざる契約」における「相手への思いやり」の有無でイジリはお互いがハッピーなイジリのまま関係を続けられるのか。
「相手への思いやり」が欠如していた場合、イジリはイジメに化けうるのか。
その時、お互いのイジメになりつつあるイジリをお互いがハッピーなイジリに修正することは可能なのだろうか。
絶対的な内容ではないと思うが、傾向として考えてみた。
情緒の形成段階である子供の場合、まだまだ修正は可能と考える。
子供たちの中でパワーバランス(組織内のカースト)が固定化されたとしても、親の干渉が容易であるからであるし、子供も親の伝えたい事を聞いてもらえる可能性は大きいためである。
もちろん親がしっかりしていることが前提である(またも自分にブーメラン)。
子供は人との関係に不調が生じた場合、当の本人から何か違和感のようなものを出すが、その違和感はすぐに身を潜めるためである。
高校~大学(社会人になる前)では、イジリの修正は難しくなると考える。
これは、当の本人たちが出会った時点で「相手への思いやり」の概念が6割以上固定化(環境による経験(判断)の蓄積)がされているものと考えているからである。
この時点で本人が数十年生きてきている。
いくら未成年とはいえ、侮れない。
彼ら・彼女たちの中でパワーバランス(組織内のカースト)が固定化された場合、「相手への思いやり」の概念が6割以上固定化されていることがイジリの修復は難しくなることを助長させる。
では、社会人になればどうか。
いわずもがな、イジリがイジメに変わりつつある状況であれば、修復は困難を極めるだろう。
社会人は義務と責任の世界であること、組織(直近の上司や同僚を含む)のパワーバランスや利害関係があることから、それらが複雑に絡み合うためである。
お互いのやり取りを細分化して判断する必要がでてくるのである。
これは、一部は相手に非があり、一部に自分に非があるといった具合に、とにかくやり取りを細かく分けて是非を判断しなければいけなくなることを示す。
「相手への思いやり」の概念はほぼ固定化されてしまうわけである。
それは当人たちのパワーバランス(組織内のカースト)が完全に固定化されたことを示す。
例えば、最悪なケースとして、仕事ができるパワハラ気質の上司と仕事ができない部下の関係を考える。
部下はイジリがイジメに変わりつつある状況であったとしよう。
また、仕事ができるパワハラ気質の上司は、仕事の成果が出せない部下に対する指導という名目を強くできる主張や論を提示したとしよう。
その時、部下が苦痛なイジリ(イジメに化けつつあるイジリ)と認識・主張したとしても、組織は部下は仕事ができない事実があるので指導という名目が強くなり、「愛のムチ」や「熱い指導」といった認識になり、一応仕事ができるパワハラ気質の上司に注意が入ったりするが、最終的には不問となったりする。
以上のように、年をとればとるほどイジリとイジメの境界線はひくことが難しくなってくる。
そんな中、仕掛けられた側(イジリを受けた側)の対処はどうするか。
自ら属する集団でお互いに「見えざる契約」がされておらず、他人(友人や会社のメンバーなど)と日々やり取りする中で強烈な違和感を感じた場合、もちろんハッキリと自分の感じている嫌悪感を伝えることが望ましい。
しかし、現実解の観点からすれば、大抵は当の本人が役割的に孤立していたり、既にカーストが形成されていることが大いに考えられる。
年をとればとるほど、主張したところで変えることは難しくなる。
属している集団から距離を置いたり身を引くことも視野にいれて考えた方が良い。
それは付き合う友達をかえることであったり、重度であれば学校を変えることであったり、部署であったりする。
(何にせよ、やはり自分にブーメランである)
本人のエネルギーは相当に必要とする。
そんな事態は無い方が望ましいのは間違いない。
やはり子供の頃に「相手への思いやり」を着実に根付かせることが最も大事であろう。
親だけでなく、子供にとってもより良い人生になるものと信じている。
補足(という名の宣伝)だが、仕事ができるパワハラ気質の上司については別途考察しているので、興味ある方はそちらを参照頂きたい。
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