こんな私にも2人目の子供が生まれました。
会社の制度に育児休暇があったため、取得しました。
その時に感じたことを忘れたくないので、私の楽しみであるX(旧Twitter)を断絶してまでチマチマ内容をまとめていました。
育児休暇でないと中々感じることができないな、とも感じました。
期間は2週間ほど取得しました。
私が今いる会社は制度的に国の制度との育児休暇が取りづらかったためです。
(私の所属している会社の制度詳細は割愛します)一般的なものと比べて短いです。
内容は1人目の子供に焦点をあてています。
2人目は1人目の時のやり方を踏襲なので、まとめていません。
なので、育児は予想以上にしんどいとか、3時間おきで深夜寝れないとかは、私のブログ以外にも適当にググるだけで確認できると思いますので、割愛しています。
※全部じゃないですが私のブログでもその辺の内容は子育てカテゴリーにまとめています。
ご興味ありましたら見てみてください(宣伝)。
1人目の子供の関係見直し(2人目の場合)
ココが私の育児休暇の一番の気づきでした。
育児休暇である期間だからこそ気づけた、子供にとっても親である私にとっても貴重な経験となりました。
子供は潜在的な能力を含めれば論理面で大人と対等である
私自身びっくりしたのですが、3歳児の子供は論理面において潜在的な能力も含めれば大人とほぼ同等である、ということです。
というのも、論理面においては、理由を添えてしっかりと会話ができることをハッキリと確認したからです。
補足として、3歳になるまでに事前にやった事としては、日々の会話の中に「AはB、なぜならCだから」の構文を意識して取り込んだこと、子供からのなぜなぜ攻撃無限ノックを可能な限り拾う, 返すをしていました(何もしていないわけではありません)。
これにより、私が子供を見る目が変わり、関係を見直すきっかけとなりました。
会話における3歳の子供と大人である私は論理面において、すでに対等である、という考えに至りました。
子供だから舐めてかかる、ということはしなくなりました。
幼児退行(赤ちゃん返り)との向き合い
一方で新しい問題もありました(といいつつ、世間一般では既知です)。
2人目が誕生したことによる1人目の子供の幼児退行(赤ちゃん返り)でした。
私達の場合も例外なく避けて通れませんでした。
1人目の子供は安心感を求めました。
内容はスキンシップです。
特に突発的なだっこの要求, 母親のやりとりの要求でした。
私の家族の場合、基本は母乳&ミルクによる育て方をしているため、1人目からは目に見えて1~2時間が頻繁なスパンで「お母さんが自分にかまっていない状態」となり、毎日続くことで癇癪をおこす、理不尽なわがままを要求する、といった具合となりました。
色々あったのですが、父親としてもできることはありました。
とにかくスキンシップをとったことです。
内容は大それたものではないです。
子供が幼稚園(保育園)から帰ったら2人で公園で遊ぶとか、2人でどんな内容でもいいから会話をするとか、子供が不機嫌な時は私から「だっこしてほしいの?」と聞くとかです。
百発百中には程遠いですが、お互いがじかに関わりあえることができるものならとにかく何でもやりました。
それでも父親(私)だけの対応では限界がありました。
ある時に突然黙りこくったかと思えば泣き出したり、昼寝の後に起きたかと思えば泣き出したりで、とにかく「ママがいい!!」という具合に子供の相手を交代させられたりしました。
妻が2人目に母乳をやっているときが最悪で、どうしようもできない時もありました。
ただ、ジリビンではありましたが、1人目の子供は前章で述べたような論理面がしっかりしていたため「お母さんが相手できなかったら、パパと一緒に〇〇しよう」という提案が通り、幸いにもいろいろな場面で難をしのぐことができました。
このとき、妻と私はいろいろと腰を据えて会話をしました。
今後の育児の認識合わせ(特にお互いの役割分担的なもの)ができたのではないかと思っています。
妻と私の認識あわせにおいても、これだけ子供のことについて話し合えたのは、育児休暇を取らないとできないのでは、と考えています。
育児における父親としての役割の認識
相当に大それていうのですが、育児における父親としての役割は、論理的なものの考え方と責任の考え方の地盤を作ってあげることなんじゃないかと思います。
これだけだと壮大に聞こえるのですが、実際は「順番を考える」「順番を守る」から始まり「約束は守る」「嘘はつかない」「間違いをしたら謝る」を行動で示す、といった具合です。
こいつ…行動で示すとかかっこいいこと言いやがって。と、なりますでしょうか?
いえいえ日々家族と過ごしていると自然とやらなきゃいけない局面に出くわすことだと思います。
というのも、家族が日々生活をする中、日常会話の中で今日は何するとか話しますよね?その時に自然と物事の順番を考え内容を話し、そのとおりにやろうとしますよね?もちろん一人で勝手にやる作業とかもありますが。
子供と話している時だって、外で遊びに行こうと言われたら行こうと約束したりとかしますよね?また、親としては嘘のない約束となるはずです(性善説ベースになってしまいますけど)。
それでも急な予定が入って事前に取り交わした嘘のない約束を断らざるを得ない時だってあるわけで、外に遊びに行こうという約束は子供から見たらそれが嘘になってしまうのもあるわけです。
その場合は、子供に対して間違いとして謝らなきゃいけない場面になってしまうと思うんです。
ほんの一例をだしてガタガタ言いましたが、人間って大人になっても完璧じゃないので、いくらでも上記のようなシーンに出くわし、自然と行動で示すシーンに迫られると思うわけです。
これ、「順番を考える」「順番を守る」から始まり「約束は守る」「嘘はつかない」「間違いをしたら謝る」というのは、私が子供に偉そうに言った分にだけ全部私にブーメランで帰ってくる、という事です。
子供はブーメランが返り行動の必要性に迫られた親(大人)が、実際にどうやって行動しようとするか、見ます。怖いくらいに。
断定した言い方ですが、本当に見てます。本当に見てます。ほんとーに、見てます。
我が子ながらびっくりです。
私は怖いです。
上記のように考えたのも、私の1人目の幼少期の育児は情緒面によりがちになってしまったからです。
それ自体は私も賛成で、最優先で取り組むべき内容と考えます。
自身の生を肯定し、長い人生の中で直面するたくさんの困難を乗り越える原動力となるからです。
しかしながら、だからといって情緒面だけでよいかということにはならないと思います。
遅かれ早かれ自分の子供は外の世界との関わりを持っていかなければならないし、持っていくわけです。
そういった観点でも、外の世界の関わり方に関しては、父親の存在は大きいものだと考えています。
仕事vs家庭(育児+家事)の対立構造は不毛
言いたいことはいたってシンプルで「仕事vs家庭(育児+家事)の対立構造をつくってどちらが大変かなんて優劣を決定しようとする不毛な争い、やめません?」です。
対等でいいじゃないですか。
事実そうなんですし。
仕事と家庭(育児+家事)の大変さを分かったうえでお互いが尊重しあえばそれが一番じゃないのかなぁと思うのは私だけですか?
なぜなら、仕事と家庭(育児+家事)って担っている分野が違いすぎませんか?
スポーツでいうなら水の競技と陸の競技くらい違うし、学術分野でいうなら文系と理系くらい違う。
これぐらい違うと思うのです。
念のため断っておきますが、よくそれぞれの内容を年収に換算して比較できるようにしようという話があると思います。
あれもやめた方がいいと思っています。
誰も幸せになっていないですもん。
年収に換算する方法は人が決めた価値(金額)をベースにしているわけです。
仕事と家庭がもつ本質的な価値とは異なるものであることは明白です。
本質的な価値が異なるものに対し、それぞれを無理やり単位を統一しようとして定量的に比較しようとしても、無理があるわけです。
いやぁまずはざっくり比較からしないと話が進まないでしょぉ?もあるかと思いますが、比較対象の規模が壮大なので絶対値の評価をしない限り、争いの火種が増えるだけです。だったら比較そのものをやめてしまったほうがいいとおもうのも、私だけでしょうか?
もう一つ。
この手の話が出てくる要因って、双方の作業内容の把握が不足しているからだと思うんです。
自分が認識している相手の作業の解像度が低いわけです。
要は自分よりも相手の作業が楽に見えてしまっているのです。
そんなことないのに。
一回、自分で相手の作業をやってみればわかると思うんだけどなぁ。
絶対相手を卑下することなんか言えないはずです。
やっぱり、お互いの作業を理解したうえで、お互いの得手不得手を考慮し、お互いの役割を決めていくことが大事なんじゃないかと思います。
コメント スパム対応をしたつもり、コメントは残す方向で頑張ってます